登入第54話 すべての召喚を始めた男が、妹の名前を消していた
共同裁判へ提出する証言書の準備より先に、俺とリシアは婚姻の意思を確認する百二十六項目の質問へ答えることになった。
御厨統馬がすべての召喚制度へ関わっていたと名乗り出た以上、すぐに事情を聞くべきだと思ったのだが、礼部の官僚たちは譲らなかった。昨日、各国の使節を前に婚姻の自由意思を宣言したため、言葉どおり双方の意思を確認し、記録として残す必要が生じたらしい。
俺は東の離宮の応接室へ、リシアは隣の書斎へ入れられ、それぞれ三人の官僚に囲まれた。
机には質問書と筆記具、それに回答中の精神状態を測る魔道具まで並べられている。俺が嘘をつけば、透明な水晶が赤く光るという。昨日まで王国の精神支配を批判していたはずなのに、今日は結婚する気が本物か魔術で調べられるのだから、この世界の同意に対する感覚は、まだかなり複雑だった。
「質問に答えたくない場合は、拒否できますか」
俺が尋ねると、正面の官僚は真面目な顔で頷いた。
「拒否された事実は記録されます
第56話 忘れていた名前を呼ぶと、少年は初めて泣いた「僕の名前は、ユエル。ユエル・ラナク」かすれた声は頼りなく揺れていたが、その言葉が誰へ向けられたものなのかは、はっきりと伝わってきた。始祖竜から借りた新しい通訳は、以前の万象通訳のように、本人が隠している心の奥まで勝手に拾い上げたりはしない。相手が言葉にし、自分の意思でこちらへ渡そうとした意味だけが届く。そのため、俺に聞こえたのは少年の名と、それを知ってほしいという切実な願いだけだった。聞き間違えてはいけないと思うほど、すぐには声が出なかった。フィーネも同じだったらしく、十三番目の記録を胸元に抱えたまま、少年をまっすぐ見つめている。彼女は以前なら勢いのまま名前を繰り返していただろうが、今回は唇を開きかけたところで思いとどまり、慎重に尋ねた。「ユエルって、呼んでもいい?」少年は一度だけ怯えたように肩を強張らせた。名前を口にしたことを後悔したのかもしれない。俺たちが喜んだせいで、次の言葉まで求められていると感じた可能性もある。名前を取り戻すという出来事は、見守る側にとっては感動的でも、本人にとっては、忘れさせられた痛みに自分から触れ直すことでもある。フィーネは返事を急かさなかった。記録を膝へ下ろすと、自分の両手を少年から見える場所へ置き、触れようともせずに待った。やがて、少年が小さく頷いた。「ユエル」フィーネが、今度は確かめるように呼んだ。少年の顔が歪んだ。声を上げて泣いたわけではなかった。何かに耐えようとして口を固く結び、目を何度もしばたたかせていたが、それでも涙は止まらず、痩せた頬を伝って寝台の上へ落ちていく。拭おうとした手まで震えているのを見て、フィーネは自分の袖を差し出しかけ、それから思い直して、枕元に置かれていた清潔な布を少年の近くへ置いた。「泣いてもいいよ。触ってほしかったら言って。言えなかったら、こうして」フィーネは自分の腕を広げ、抱き締めてもよいと伝える仕草をした。続いて首を横へ振り、嫌なら断ってよいというところまで、少し大げさなくらい丁寧に示す
第55話 四百年間隠された名簿に、「日本へ帰還成功」と書かれていた御厨統馬が隠した召喚記録を回収するため、俺たちは翌朝、聖王都へ向かった。始祖竜が目覚めたあと、竜帝国と聖王都の間には、緊急連絡用の転移路が設けられている。ただし、かつての万象宣命のように一方が勝手に道を開く仕組みではなく、両方の管理者が許可を出さなければ通れない。移動に時間がかからないのは便利だが、御厨を同行させるとなると話は別だった。両手には封印具、腰には逃亡防止の鎖が巻かれ、ヴァルガンとロランが左右を固めている。さらに前後を六人の竜騎士が守り、その外側を聖王都の衛兵が囲んでいた。世界を四百年間支配した男の護送としては厳重なのだろう。しかし本人は抵抗する様子もなく、転移路の前で身体を調べられている間、眠そうに欠伸をしていた。「君たちは、私が服の中へ何かを隠せると本気で考えているのかい。聖王の力も、始祖竜の核も失った五十過ぎの男だよ」「四百年以上生きた男が、今さら普通の五十代を名乗るな」ヴァルガンが封印具を確かめながら答えた。「それに貴様は、力がなくても言葉だけで人を動かす。口の中に命令術を隠していないかまで調べたいくらいだ」「それは難しいね。舌を抜くしかない」「必要なら検討する」「冗談が通じない男だな」「貴様の冗談で国が三つ滅びかけた記録がある。笑えると思うか?」御厨は肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。以前なら、相手の怒りを楽しむように言葉を重ねただろう。今は、自分が軽口を叩けば、それを聞かされる側へどのような感情を強いるのか、少しは考えるようになったらしい。だからといって、ヴァルガンの怒りが消えるわけではない。一度変わり始めた人間を評価することと、それまでの罪を忘れることは別だ。転移路を抜けると、聖王都の大聖堂前広場へ出た。都市が落下しかけた日の損傷は、まだあちこちに残っている。崩れた建物には仮設の柱が入り、石畳の亀裂を職人たちが修復していた。十二の聖灯は以前より光を弱めているが、市民が
第54話 すべての召喚を始めた男が、妹の名前を消していた共同裁判へ提出する証言書の準備より先に、俺とリシアは婚姻の意思を確認する百二十六項目の質問へ答えることになった。御厨統馬がすべての召喚制度へ関わっていたと名乗り出た以上、すぐに事情を聞くべきだと思ったのだが、礼部の官僚たちは譲らなかった。昨日、各国の使節を前に婚姻の自由意思を宣言したため、言葉どおり双方の意思を確認し、記録として残す必要が生じたらしい。俺は東の離宮の応接室へ、リシアは隣の書斎へ入れられ、それぞれ三人の官僚に囲まれた。机には質問書と筆記具、それに回答中の精神状態を測る魔道具まで並べられている。俺が嘘をつけば、透明な水晶が赤く光るという。昨日まで王国の精神支配を批判していたはずなのに、今日は結婚する気が本物か魔術で調べられるのだから、この世界の同意に対する感覚は、まだかなり複雑だった。「質問に答えたくない場合は、拒否できますか」俺が尋ねると、正面の官僚は真面目な顔で頷いた。「拒否された事実は記録されますが、それだけを理由に婚姻の意思がないとは判断いたしません。ただし、重要項目への回答を拒まれた場合は、理由を伺います」「理由を答えたくない場合は?」「理由の回答を拒否されたと記録します」「何を言っても記録されるんですね」「記録することが、我々の職務ですので」官僚には悪気がない。むしろ、昨日の王国のように、本人の意思を確認せず婚姻を無効とされないため、可能な限り丁寧に証拠を残そうとしているのだろう。それでも、質問を始めて三十分もしないうちに、俺は召喚院長ベルトランと話していたときとは別の種類の疲労を感じ始めた。「婚姻後、リシア殿下から公務への参加を求められた場合、拒否できますか」「理由を説明して相談はしますが、拒否できると思います」「殿下が感情的になり、尾で床を叩いてもですか」「それは婚姻意思の確認に必要な質問なんですか?」「殿下が不機嫌な際に見せる威圧行動について、恐怖による服従が生じていないかを確認しております」
第53話 婚姻無効を要求されたので、彼女が世界へ婚約宣言した俺たちの婚礼を無効と見なす。王国から届いた二通目の書状は、翌朝には七十六枚の写しとなって、始祖宮の会議室に積み上げられていた。一通あれば内容は読めるはずだが、外務官、司法官、皇族、共同裁判の準備委員会、各国使節への説明担当、婚礼を取り仕切る礼部まで、それぞれが原本と同じ物を要求した結果らしい。人間を所有物として扱う王国の主張へ腹を立てる前に、紙の消費量へ不安を覚えてしまう。もっとも、机の向こうに座るリシアは、紙の心配などしていなかった。「返答文が完成した。確認してくれ」渡された紙束は、王国からの書状より明らかに厚かった。一枚目は外交文書らしく整っている。しかし読み進めるうちに、召喚者を資産として扱う王国法の矛盾、契約原簿の不備、俺を追放したあとで所有権を主張する論理の破綻、精神支配術の違法使用、佐伯美波さんたちへの長期監禁、証拠隠滅未遂が、一つずつ逃げ場のない形で並べられていた。最後には、俺とリシアの婚姻へ異議を唱える法的根拠が存在しないことを、過去二百年分の国際婚姻協定まで引用して証明してある。文章そのものは冷静だった。ただし、冷静すぎるせいで、書いた本人が怒っていることが余計によく伝わってくる。刃物へ丁寧に油を塗り、一番痛い場所へ順番に突き刺していくような返答だった。「全部で何枚あるんだ?」「三十二枚だ。必要な論点を整理しただけで、特別長くはない」「この世界の外交官は、相手が最後まで読むことを前提にしすぎじゃないか?」「読まなければ、読まなかった側の責任だ」「十枚目あたりで、読む側が自分の人生を振り返り始めそうだけどな」リシアは俺から紙束を取り戻し、不満そうに頁をめくった。「削るべき箇所があるなら言え。感情だけで書いたつもりはない」「内容は間違ってない。ただ、俺たちの結婚の話と、佐伯さんたちの監禁を一つの返答へまとめないほうがいいと思う」「なぜだ。どちらも王国が人間を所有物として扱っていることから生
第52話 「帰れるなら、どうして帰らなかったんですか」佐伯美波さんを治療室へ連れていこうとしたところ、彼女は扉の前で足を止めた。治療室は始祖宮の中でも明るい場所にあり、大きな窓から陽光が差し込み、壁には薬草を乾燥させた香りが染みついている。地下牢とは似ても似つかない部屋なのに、美波さんは白い寝台と、窓にかかった厚いカーテンを目にした途端、リシアに預けていた腕を引いた。「ここへ入るんですか」「身体を診てもらうだけです。嫌なら、別の場所に変えてもらいます」俺が答えると、美波さんは廊下の奥を振り返った。誰かに追われているわけではない。それでも、閉じた空間へ足を踏み入れれば、二度と出られなくなるように感じているのだろう。「扉を開けたままにしてもらえますか。それから、窓のカーテンも閉めないでください」「もちろんです」近くにいた治療師へ事情を伝え、扉を固定してもらった。窓も開けると、まだ冷たさの残る風が部屋へ入り、白いカーテンを揺らす。美波さんは風の流れを何度も確かめてから、ようやく室内へ入った。治療師が手首へ触れようとすると、彼女は反射的に腕を引いた。そのあと自分から診察を頼んだことを思い出したらしく、申し訳なさそうに頭を下げる。「ごめんなさい。触る前に、どこへ触るか教えてください。急に手をつかまれると、身体が勝手に動いてしまうんです」俺が通訳すると、竜族の女性治療師は美波さんから一歩離れた。「承知しました。まず右手首へ触れ、脈を確認します。次に瞼を見せていただき、そのあと背中と足の傷を診たいのですが、すべて同時に行う必要はありません。途中で嫌になった場合は、いつでも止めます」治療師は、ただ大丈夫だと慰めなかった。何をするのかを具体的に説明し、美波さんが拒める余地を残した。治療する側にとっては手間が増えるだろうが、十六年間も身体を管理されてきた彼女には、その手間こそが必要なのだと思う。美波さんは小さく息を吐き、右腕を差し出した。「お願いします」診察の結果、深刻な栄養不足と貧血、長期間の拘
第51話 十六年ぶりに、彼女の名前を呼んだ佐伯美波さんの声を記録した結晶から光が消えたあとも、執務室にいる誰もすぐには口を開かなかった。今夜中に記憶を消される。その事実がわかった以上、各国の同意を待ち、正式な調査団を組織している時間はない。しかし急いで軍を動かせば、救出されるはずの二人が王国にとって都合のいい人質へ変わる。助けるための正しさが、助けたい相手を危険にさらすこともある。焦っているときほど、それを忘れてはいけなかった。「記憶消去の処置は、何時に始まりますか」俺が尋ねると、負傷した書記官ノアは治療師に腕の傷を洗われながら答えた。「日付が変わる頃です。地下第七封鎖区には通常の階段以外に、召喚院長と一部の研究官しか使えない転移路があります。移送先を知られないよう、囚人の記憶を消した直後、その転移路から連れ出すはずです」窓の外は、まだ昼を少し過ぎた頃だった。残された時間は半日もない。「牢へ入る方法は?」「地上の召喚院から地下へ下りる場合、三つの検問を通らなければなりません。私の通行証で二つ目までは進めますが、最後の扉には召喚院長の血か、登録された召喚体の魂紋が必要です」ノアの目が、俺へ向いた。俺なら最後の扉を開けられる可能性がある。王国にとって俺が第七召喚体である限り、地下牢へ入る鍵としても使えるらしい。「結局、遥人を連れていく必要があるということか」リシアの声が低くなった。「私の血で扉を壊せないのか?」「扉そのものを破壊すれば、地下区画が封鎖されます。通路へ毒が流れ、囚人の生命を維持している術式も停止する仕組みです」「囚人を奪われるくらいなら殺す構造か。実に周到だな」アレクシオが吐き捨てるように言った。ノアは唇を噛み、頭を下げた。「申し開きの余地はありません。私は召喚院の記録官として、三年間そこで働いていました。直接、処置へ関わったことはありませんが、地下に人がいると知りながら、何もしなかった」







